いい曲とは何か?初めて聴いた音楽をいい曲と断言することができるのか?
音楽は、私たちの生活に深く根差し、様々な感情を揺り動かす芸術である。嬉しい時、悲しい時、あるいは何も考えたくない時でさえ、私たちは音楽を求め、その音色に心を委ねる。日々の暮らしの中で、ふとした瞬間に流れてくるメロディにハッとさせられ、「ああ、いい曲だな」と感じる経験は、誰にでもあるだろう。
しかし、この「いい曲」という感覚について、立ち止まって考えてみたことはあるか?そもそも「いい曲」とは何だろうか?そして、もっと根源的な問いとして、初めて聴いた音楽を、その瞬間に「これはいい曲だ」と断言することは、本当に可能なのだろうか? 私自身、そしておそらく多くの音楽好きが抱える、この問いについて、今回はじっくりと考えてみたい。
ピカソとの出会いと、「理解」に時間が必要だったということ
話は少し脱線するようだが、私がこの音楽の問いを考える上で、いつも思い出す経験がある。それは、かの有名な芸術家、パブロ・ピカソの絵画との出会いだ。
初めてピカソの絵を見たのは、小学校の教科書だったと記憶している。そこに載っていた、キュビスムと呼ばれる手法で描かれた人物画や静物画は、当時の私には全く理解できなかった。「顔が歪んでいる」「形がおかしい」としか思えず、なぜこれが「すごい絵」として教科書に載っているのか、不思議でならなかった。正直なところ、何ら感動することはなく、「よくわからない絵」という以上の感想を持つことはできなかった。私の限られた知識や経験の中では、教科書に載っているピカソの絵は、まさに「理解の範疇を超えていた」のである。
時は流れ、大学生になった頃、私は偶然にもピカソの展覧会を訪れる機会を得た。初めて、本物のピカソの絵を生で見たのだ。教科書で見たものとはスケールも迫力も全く異なり、キャンバスから放たれるエネルギーのようなものを感じた。もちろん、描かれている対象が写実的でないことに変わりはない。しかし、そこに込められた色彩の力、線や形のダイナミズム、そして何よりも、既存の美術の枠にとらわれない圧倒的な独創性に、私は強く引きつけられた。
そこで初めて、「ああ、世界中の人々がこの画家を偉大だと認めるのは、こういうことなのかもしれない」と、ほんの少しだが理解できたように感じた。小学校の頃には全く響かなかった絵が、時間や経験を経て、そして「生」で見るという新たなコンテクストを得たことで、全く違ったものとして私の心に響いたのである。
このピカソの経験は、私に一つの示唆を与えてくれた。それは、ある芸術作品の真価を理解したり、心から感動したりするためには、必ずしも最初の接触での直感的な反応だけが全てではない、ということだ。むしろ、時に時間や経験、そして繰り返し触れることによる「慣れ」や「深掘り」が必要なのではないか、と考える。
そして、これは音楽においても、全く同じことが言えるのではないかと思うのだ。
音楽との深く、そして時に曖昧な関係
私は、物心ついた頃から音楽が好きである。特定のジャンルに偏らず、クラシックからロック、ポップス、ジャズ、エレクトロニカ、民族音楽まで、幅広く聴いてきた。私の人生において、音楽は常に寄り添ってくれる存在であり、喜びや悲しみを分かち合い、新たな発見をもたらしてくれる大切な友人だ。
そんな私が、普段から少し疑問に思っていることがある。それは、私の周りの人々、あるいはSNSなどで見かける音楽に対する反応についてだ。彼ら(そして時に私自身)は、驚くほど迅速に、ある曲を「いい曲だ!」と断言する。テレビCMで数秒だけ流れたBGM、動画サイトの短いイントロ、誰かがシェアしたプレイリストの一曲目…まだ曲全体を、いや、サビすらきちんと聴いていない段階で、「これ、めっちゃいい曲だね!」とコメントする人が少なくない。
彼らは本当に、その断片的な情報だけで「いい曲」を見抜いているのだろうか?あるいは、彼らが「いい曲」と呼ぶものと、私が心の底から「いい」と感じるものには、何か違いがあるのだろうか。
この問いは、他人事ではない。私自身も、まさに同じような経験を何度も繰り返してきたからだ。テレビで耳にした印象的なフレーズ、ラジオから流れてきたキャッチーなメロディ、あるいは友人が勧めてくれた曲の冒頭部分に惹かれ、「これだ!」と思ってCDを購入したり、音楽配信サービスでダウンロードしたりしたことが何度もある。
しかし、そうして手に入れた曲の多くは、PCやスマートフォンの音楽ライブラリの中で、すぐに埋もれていってしまった。購入した当初は繰り返し聴くのだが、数日、あるいは数週間も経たないうちに、すっかり飽きてしまうのである。
ある時、ふと気になって、自分が普段使っている音楽ソフトの再生回数を確認してみた。結果は、予想通りというべきか、少しショックを受けるべきか…。「いい曲だ!」と即断して購入したにもかかわらず、これらの曲の再生回数は、わずか数回で止まっているものが非常に多かった。一方、長い間聴き続けている、本当に愛着のある曲は、何百回、何千回と再生されていた。
この明らかな差は、一体何を物語っているのだろうか?なぜ、あんなにも「いい曲だ!」と感じたはずなのに、すぐに飽きてしまうのだろうか?
飽きの原因は「既存曲との照らし合わせ」?
私は、この「飽き」がすぐにきてしまう現象の背景には、「既存曲との照らし合わせ」があるのではないかと考えている。
私たちは、生まれた時から現在に至るまで、膨大な量の音楽を耳にしてきた。それは、童謡であり、CMソングであり、テレビ番組のテーマ曲であり、流行歌であり、クラシックであり、あるいはインターネット上で偶然出会った無数の曲たちである。私たちの脳内には、知らず知らずのうちに、巨大な「音楽データベース」が構築されている。メロディのパターン、コード進行の定石、リズムの類型、音色の組み合わせ、曲の構成…様々な音楽的要素が、このデータベースには格納されているのだ。
初めて聴く曲に触れたとき、私たちの脳は無意識のうちに、その新しい音をこの既存のデータベースと照合しているのではないだろうか。メロディは過去に聴いたあの曲に似ているな、このコード進行はよく使われるパターンだ、このリズムはあのジャンル特有のものだ、といった具合に。
そして、初めて聴いたにもかかわらず「いい曲だ!」と強く感じられる曲は、往々にして、この既存のデータベースの中に格納されている「過去に聴いて、いいと思った曲」と、どこかしら似ているのではないか、というのが私の仮説である。
考えてみてほしい。コンサートに行ったときのことを。ほとんどの観客にとって、初めて聴く新曲の演奏は、すでに知っているヒット曲の演奏に比べて、集中力が持続しにくく、少し退屈に感じられることがある(もちろん、素晴らしい演奏であればその限りではないが)。しかし、テレビやラジオで何度も耳にしたことのある曲や、個人的に思い入れのある曲が演奏されると、会場全体のボルテージが一気に上がり、手拍子をしたり、一緒に歌ったりと、非常にテンションが高まる。
これは、すでにその曲が私たちの「いい曲」データベースに登録されており、脳が瞬時に「これは良いものだ」と認識し、快感や興奮を覚えるからではないだろうか。初めて聴く曲なのに「いい曲だ!」と感じるのは、これと同様のメカニズムが働いているのかもしれない。つまり、その曲が、すでに私たちが「いい」と認識している音楽のパターンや要素を多く含んでいるため、脳がそれを既知の「良いもの」として処理し、すんなりと受け入れてしまうのだ。
こういった、既存の「いい曲」に似ている曲は、確かに一回目の試聴で、非常にすんなりと耳に入ってくる。聴きやすく、心地よく、抵抗感がない。それは、脳が処理しやすい、既知のパターンであるからだ。キャッチーなメロディ、予測しやすいコード進行、馴染みのあるリズム…これらは、私たちの脳にとって「安心できる」「理解しやすい」要素であり、即座に「良い」という評価につながりやすい。
しかし、ここに落とし穴があるのではないだろうか。似ているということは、当然ながら独創性に欠けるということである。全く新しい発見や、これまでにない組み合わせ、予測を裏切る意外性といった要素が少ない、あるいは全くない可能性がある。初めて聴いた瞬間の「おお!」という新鮮な驚きは、実は単に「既知の良いもの」のバリエーションに対する反応に過ぎず、真の未知との遭遇からくるものではないのかもしれない。
その結果、どうなるか。購入して数回聴くうちに、その曲のパターンや構成が容易に予測できるようになり、脳にとっての「情報量」が急速に減少する。新しい発見がないため、興味を失いやすくなる。あんなに「いい曲だ!」と思って衝動的に購入したはずなのに、どこか物足りなさを感じてしまうのだ。この独創性のなさこそが、すぐに飽きてしまう最大の理由なのではないかと、私は考えている。
私たちの脳は、常に新しい刺激や情報を求めている。完全にランダムなものは理解できないが、既知のものばかりでは退屈してしまう。適度な予測可能性の中に、意外性や新規性があるものにこそ、私たちは持続的な関心を持ち続ける傾向がある。すぐに飽きてしまう曲は、この「適度な意外性や新規性」が極めて少ない、あるいは全くないのかもしれない。
「拒否感」から生まれる真の愛着?
一方で、これとは全く逆の経験をしたことはないか?初めて聴いたときは、正直に言って「あまりピンとこないな」「なんか苦手かもしれない」と感じた曲。耳馴染みが悪く、メロディやリズムが複雑に感じられたり、独特な音色に違和感を覚えたり、あるいは歌詞の世界観に共感できなかったりと、一種の「拒否感」さえ覚えた音楽が。
しかし、なぜか繰り返し聴く機会があったり、あるいはふとした瞬間に再び耳にしたりするうちに、初めの違和感が薄れていき、その曲の持つ魅力が徐々に理解できるようになっていく。そして、気づけばその曲が頭から離れなくなり、積極的に繰り返し聴くようになり、最終的には自分にとってかけがえのない、深く愛せる一曲になる。そんな経験、あなたにもないか?
私は、真に自分が長く深く愛せる曲というのは、もしかすると、そういった最初の「拒否感」の中に隠れているのではないか、と最近強く感じるようになっている。
なぜなら、初めて聴いたときに「拒否感」を覚える音楽は、おそらく私たちの既存の「音楽データベース」にはない、あるいは非常に少ない要素を含んでいる可能性が高いからだ。メロディの運び方、ハーモニーの付け方、使われている楽器の音色、リズムのパターン、曲全体の構成、あるいはその背景にある文化的、歴史的な文脈…それらが、私たちが慣れ親しんだものとは大きく異なっている。だからこそ、脳はそれを即座に「良いもの」として処理できず、戸惑いや違和感、「拒否感」として反応するのだ。
しかし、その「戸惑い」や「違和感」こそが、その音楽が持つ真の独創性の証なのではないだろうか。既存のパターンから外れ、新たな表現を追求しているからこそ、私たちの脳は即座に理解できず、ある種の抵抗を感じる。これは、小学校の私がピカソの絵を見て「理解できない」と感じた感覚と、非常に近いものがあるように思う。
そして、ピカソの絵がそうであったように、時間をかけて繰り返し触れることで、私たちはその音楽の新たな側面を発見したり、その構造や意図を少しずつ理解したり、あるいは自分自身の感性がその音楽に慣れてきたりする。最初の「拒否感」は、未知への扉を開けるための、一時的な心のブレーキのようなものだったのかもしれない。そのブレーキを乗り越えて一歩踏み出した先に、真の意味での新曲、つまり、既存の音楽の焼き直しではない、あなたの音楽体験に新たな次元をもたらす音楽が待っている可能性があるのだ。
繰り返し聴くことで、その曲の持つ複雑なレイヤーや、一度聴いただけでは気づけなかった細部の工夫、あるいはアーティストの意図といったものが、少しずつ見えてくることがある。最初はただのノイズや不協和音に聞こえたものが、曲全体の構成の中で重要な役割を果たしていると気づいたり、独特なリズムパターンが実は心地よいグルーヴを生み出していると感じるようになったり。
これは、まるで難解なパズルを解く過程や、新しい言語を習得するプロセスに似ているかもしれない。最初はチンプンカンプンでも、時間をかけて粘り強く取り組むうちに、パターンが見え始め、意味が理解できるようになり、最終的にはその複雑さの中にこそ美しさや面白さがあることに気づくのである。
初聴きで「いい」と思ったものは、かならずしも真に「いい曲」でない
これらの経験から、私は一つの結論にたどり着きつつある。それは、初めて聴いた瞬間に「いい曲だ!」と強く感じたものが、必ずしも自分にとって真に価値があり、長く愛せる「いい曲」であるとは限らない、ということだ。
むしろ、最初の直感的な反応は、その曲が私たちの既存の音楽データベースとどれだけ合致しているか、どれだけ脳にとって処理しやすいかを示しているに過ぎないのかもしれない。心地よさや馴染みやすさは、即座の「好き」につながるが、それが必ずしもその曲の深い魅力や独創性を保証するものではないのだ。
一方で、初めて聴いたときに少しでも「あれ?」と思ったり、理解に苦しんだり、あるいは「なんか苦手だな」と感じたりした曲の中にこそ、あなたの音楽体験を豊かにし、感性を刺激し、そして何よりも長く愛せる真の「いい曲」が隠されている可能性がある。それは、あなたの既存のデータベースを拡張し、新たな音楽の世界への扉を開けてくれる可能性を秘めているからだ。
もちろん、これは「初聴きでいいと思った曲は全て superficial でつまらない」という意味ではない。初めて聴いてすぐに好きになり、そしてその後も長く聴き続けることができる素晴らしい曲もたくさん存在する。しかし、私たちの脳が「簡単」に「良い」と判断するものの中には、すぐに飽きてしまうものが少なくない、という傾向があるのではないか、ということだ。
いい曲とは、あなた自身の音楽体験の歴史そのもの
では、改めて問い直してみよう。「いい曲」とは何か?
それはおそらく、単にメロディが美しいとか、演奏が上手いとか、歌詞に共感できるといった客観的な(あるいは多くの人が共有できる)要素だけでは測れないものなのだろう。もちろん、それらの要素も重要だ。しかし、「いい曲」であるかどうかは、最終的にはあなた自身の内面や経験、そしてその音楽とあなたがどのような時間を共有してきたかに深く結びついているのではないだろうか。
ピカソの絵が、小学校の私にはただの歪んだ絵にしか見えなかったのに、大学で生で触れた時には独創性とパワーを感じさせたように、「いい曲」もまた、時間や経験を経て、その価値や魅力が私たちの心の中で熟成されていくものなのかもしれない。初めて聴いたときの印象は、その音楽との長い付き合いの、ほんの始まりに過ぎないのだ。
初めて聴く音楽に触れるとき、私たちは無意識のうちに「これはいい曲か?」と判断しようとする。しかし、その即断は、時に真の「いい曲」を見逃してしまう原因になるかもしれない。大切なのは、即座の好き嫌いにとらわれず、少しでも心に引っかかったり、あるいは「よくわからないな」と感じたりした音楽に対しても、オープンな心で繰り返し触れてみることではないだろうか。
一度で全てを理解しようとしない。すぐに「良い」「悪い」のレッテルを貼らない。時間をかけて、繰り返し聴き、その音楽が持つ多様な側面に耳を澄ませてみる。そうすることで、最初は気づかなかった音の響きや、隠されたメロディのライン、複雑なリズムの心地よさ、そして何よりも、その音楽があなた自身の内面とどのように共鳴するのかを発見できるかもしれない。
真にあなたが愛せる「いい曲」は、即座の快感の裏に隠れているのではなく、むしろ最初の「戸惑い」や「拒否感」の向こう側に、ひっそりと息づいているのかもしれない。それは、あなたの既存の音楽の枠を超え、新たな感性を開花させてくれる、唯一無二の宝物となる可能性を秘めているのだ。
「いい曲」探しの旅は、決して最初の数秒や数分で終わるものではない。それは、繰り返し聴き、時間を共有し、そして自分自身の心の変化とともにその音楽の新たな魅力に気づいていく、長く、そして個人的な旅である。
だから、次にあなたが新しい音楽に出会ったとき、もし最初の印象が「まあまあかな」とか「ちょっと変わってるな」だったとしても、すぐに judgement を下さず、もう少しだけ時間をあげてみてほしい。その音楽が、あなたにとっての真の「いい曲」になるかどうかは、これから始まるあなたとその音楽の物語にかかっているのかもしれない。
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